8月25日、久しぶりに訪れた日本民芸館。
ちょうど特別展の最終日、これを逃したら次はいつ見られるかわからない。はやる気持ちを抑えて館内に足を踏み入れたとき、心に浮かんだのはただひとつ——間に合った!
展示室内は時間が止まったかのような静けさが広がり、柳たちが集め求めた器たちがお行儀よく並んでいます。でも、なんだか語りたくてうずうずしているような感じが肌に伝わってくるようです。
1924年、柳宗悦はまだ「民藝」という言葉さえ存在しない時代に、同志である浅川伯教・巧兄弟とともに、現在のソウルに朝鮮民族美術館を開設しました。彼らが強く願ったのは、韓国の器に込められた美しさを多くの人に知ってもらうこと。その想いが、この特別展を通して私の心にも響いてきました。
「朝鮮の友に贈る書」
アトリエシムラの2024年のオンラインゼミの1冊目は柳宗悦の『民藝四十年』でした。柳宗悦の著書は『南無阿弥陀仏』しか読んだことがなく、民藝運動に関する書物はこれが初めて。いったいどんなことが書いてあるのかと開いたら、驚いたことに朝鮮の人たちに向けられた平和と友愛の気持ちが綴られていたのです。それが「朝鮮の友に贈る書」です。
日本が少しずつ帝国主義の色を濃くしていった20世紀初頭、韓国併合がおこなわれ韓国を日本の支配下に置こうとしていた頃、柳宗悦は隣国の人たちの悲しみと苦しみを思いひとり涙を流していました。朝鮮文化を軽視する時代の風潮に逆らい、柳は朝鮮芸術に込められた固有の美を高く評価し日本と朝鮮の架け橋になろうとしたのです。
柳の解釈には独特の感性と愛情があふれています。彼が朝鮮芸術に触れた言葉が魅力的なので、ここに引用します。
私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
数々の陶器を前に立ち、柳の言葉を思い返していると、器や花瓶の「線」がまるで静かに語りかけてくるように感じました。線の一つひとつに込められた民族の歴史や感情、そして、そこに立ち現れる美しさが心に染み渡りました。
知識と感覚の狭間で
もしも私が柳宗悦のことも彼の朝鮮芸術に対する想いも知らずにこの展示を見ていたら、果たして同じ美を感じ取れていたのかなと考えずにはいられません。柳の文章を読む前と後では、観賞する目が明らかに違いました。
知識が鑑賞により深みをもたらしてくれる一方で、先入観が独自の感想や新しい発見を妨げることもあるかもしれません。
次に展示を訪れるときは、少し立ち止まり、知識という眼鏡をかけた自分が感じるものと、眼鏡を外して作品から直接受け取るものとを比べてみたいと思うのです。何も知らないからこそ見える美しさもあるはずです。柳宗悦がそうしたように、作品そのものとの対話を楽しんでみたいと思うのです。
2024年9月5日から11月20日までは芹沢銈介展です。
こちらも観に行きたいです!
日本民藝館 〒153-0041東京都目黒区駒場4丁目3番33号
Commentaires